(仮題)NPOエコワーク記録誌(自分史の視点から)
理事(前理事長) 加賀谷秀樹
△個人史としての地球温暖化問題へのかかわりがある。大きな流れと「詳細」に分ける書き方。「詳細」は追記1などとして、後述する。
【NPOエコワーク実践塾との思いで】
・宮城県の公害担当職員としてまず初めての業務は「仙台湾地域公害防止協定策定調査室」であった。ここでの業務は仙台湾地域に立地する企業の公害を防止するための規制値を設定することだった。私は大気汚染の標準的規制方式(K価規制)を超える、独自の規制値を設定する仕事だった。当時県では、川崎市が単独の規制方式では市内の汚染を緩和できないと考え導入した「総量規制方式」を仙台湾地域にも適用しようとしていた。<詳細1>
・硫黄酸化物の規制基準を定め、公害防止協定に反映させるという、県として重要な業務を完遂させた後、すぐに公害技術センターという宮城県内の大気汚染常時監視業務を担当することになった。おおよそ5年間その業務を経て、情報管理部という部署に異動することになった。ここではよりよい環境を目指してという事で、自動車交通騒音を面的に管理できないかという、環境の面的管理のための指標づくりであった。
・1989年から1990年までの原子力センターにおける放射線監視業務を終え、再度1991年に大気部テレメータ室にカムバックした。仕事は日常業務である「常時監視結果の日報月報年報作成」に加え、10年ごとのテレメータシステムの更新業務が加わっていた。
・1973年の公害防止時代からよりよい環境を求めるという時代、そして地球温暖化や酸性雨などの広域汚染へと課題は大きく変わっていた。我々大気汚染従事者としては自然と温暖化対策の話題が多くなっていった。当時同世代の職員が多く、勤務後の談論風発が盛んだった。地球温暖化対策や河川の水質を改善するにはどうしたらよいか、広報や啓発活動が必要だが如何にすべきか、グループを作ってボランティア的にやろうかなどで盛り上がった。ちょうどその頃にはソーラーパネルが日本企業を中心に作られ普及を始めていた。
・1992年には、リオデジャネイロで「国連環境開発会議」が開催され、「リオ宣言が発布されたりして、徐々に二酸化炭素の削減が世界的に削減すべきという方向に進んでいった。1997年には「COP3」において、日本のCO2の削減義務として6%が目標となった。
【環境教育に関する世界の歩み】
・1972年;第1回国連人間環境会議、各連環境計画発足、1975年;環境教育に関するベオグラード憲章作成、1977年;環境教育政府間会議(トビリシ)、1980年世界自然資源保全戦略、1986年;仙台地域環境利用ガイド策定、1987年;地域環境教育カリキュラム策定
・地球環境問題へのもともとのきっかけは自分の担当業務との関連。
△「科学技術」の世界的な進展により「地球という生命体」は壊れてしまった。技術の進展は良かったのか、世界の成長と脱炭素はどうあるべきか、・・・2022年以降の世界を見ると「世界を動かす力」がないと「地球環境や個人」は無視される、・・・2015年のパリ協定はどうなるのか、COP,GX、排出量取引制度、CBAM、・・・環境の哲学(倫理・経済)、今が思案のしどころか!?
【私の入庁は1973年/公害防止計画策定調査室】
・宮城県仙台湾地域の公害防止計画の策定、管内事業者との公害防止協定、具体的には当時問題であった煙突からの硫黄酸化物の排出規制地を独自に構築することが課題。川崎市に倣って硫黄酸化物の総量規制を根拠づける仕事。大気拡散モデルに基づくモニタリング地点における予測計算と実際の測定場所における濃度データとの相関性を確認するもの。「相関関係」という回帰分析手法に初めて触れて、統計学や会期理論の勉強をすることになった。その際に参考にしたのは、「佐和隆光の回帰分析」という専門的な本と「経済学とは何だろうか」という啓発書であった。統計理論に技術計算を行った。1980年代に入ると「公害対策業務」から、よりよい環境の創造という概念が言われ始め、「アメニティ(快適性)」が求められ始めた。
・環境対策課?環境企画係から同課大気係へ移動、環境省の若手官僚として当に現場担当として初めて派遣されてきたのが「水野理」さんだ。後に「国際環境協力室長」としてCOPに行き各国との関係者と丁々発止のやり取りをしてくるのだろう。
【時代背景/1970年代】
・20世紀に入って科学技術文明が発展、欧米を中心に産業社会が地球上のあらゆるところに拡大した。石炭や石油など化石燃料を燃焼してばいじんや汚染水を大気や河川・海にどんどん捨てていった。この結果、水俣病のような地域公害が発生し、次いで酸性雨や海洋汚染のような大規模な環境汚染が生じ、オゾン層の破壊や地球温暖化のような地球規模の環境問題へと進んでいった。
・しかし低開発国では人口がとめどなく増大し、食糧不足や飢餓が頻発している。資源やエネルギーを大量消費する先進国と食料や住居不足に悩む低開発国との間には大きな落差がある。このような南北問題を解決していかない限り、地球環境問題の根本的な解決は難しいのではないか。
・1960年代は宮城県内でも鉱山の問題、水産加工場の排水・悪臭問題があり、航空機騒音・カラオケ騒音などの公害問題の解決が迫られていた。
・公害対策基本法が制定され、大気汚染防止法や騒音規制法などの公害六法が成立し、県も公害課を設置するなど、公害対策のための体制整備が進んだ。
・1970年代に入ると仙台新港地区における産業公害を未然に防止するための事前調査が行われ、立地企業との間で公害防止協定等が締結された。事業者による自主的な排気排水等の規制値の順守状況に加え、立入りによる排水基準値との適合性とともに、大気汚染や水質の環境基準値を定めるなどの施策と共に現状の汚染度を測る調査体制も整備されていった。
・世界的には1972年に第1回国連人間環境会議が開催、国連環境計画という組織が発足した。
【時代背景/1980年代】
・地域の産業公害問題に一定の対応が取れてきたところ、都市への人口集中による生活環境の悪化という問題への対処が必要になってきた。地域住民によるお互いの心遣い、思いやりにより快適性や審美性という高次の「都市における快適環境の充実」が求められるようになってきた。
・1987年が大きなきっかけであった。「よりよい環境とは何か」「地球環境問題と地域の環境はどうかかわりを持つのか」「環境教育とは何をどのように考え、行動をすればよいのか」など自分自身の考えるきっかけが以下の業務を担当したことである。原点となって様々kンが得てきた際に有効だったのが、保健環境センターにおける大気部や水質部の方々等とのコミュニケーションであった。この時の「5時から男たち」の議論が業務一辺倒の私の考えの幅を広めてくれたと思う。公害問題からよりよい環境、地球温暖化問題などの問題へと大きく広がったのだ。とはいえセンター内での議論であるので流石に酸性雨問題や宙域汚染問題、さらには地域の資源の活用など地域資源の活用にも話は進んだように記憶している。
【1987年】【原点】エコワーク実践塾とのかかわりは、昭和62年度環境庁委託事業『地域環境教育カリキュラム策定調査』(写真1)である。
・大気汚染常時監視システムの管理や情報管理業務という「人との付き合い」がほぼない初心者だったので、先生方との付き合い方も接遇も自信は全くなかった。
・この仕事は、【1986年】の環境庁委託事業『環境利用ガイド策定事業』に続いて担当させられたものではあったが、この業務を通じて大気汚染や公害という局地的なもの以外の<多くの環境要素というものを調査していたのは経験としては大変良かった。
・1987年の8月に世界人口が50億人を超えた年という事で報道があった。人口の幾何級数的伸び率は「ローマクラブの」に通じるものがある。
・この事業は地域における環境教育の推進であり、宮城県内の現状を調査し、今後の方向性を打ち立てるもの。大変だったのは「宮城県環境教育検討会」という学識経験者による検討会を設置しなければならなかったこと。
【1988年】
【1989年(平成元年)】
・宮城県女川町にある「原子力センター環境測定課長という立場で移動。ここでは「原子力安全対策の放射能汚染の監視測定業務をする県の試験研究機関。地域環境創造や地球環境問題から「チェルノブイリ原発事故後の全世界的規模の放射能汚染問題に取り組むことになった。ただ課長といえどもルーティン業務をもって勉強してもらうという趣旨もあり、引継ぎを受けたが、日々の業務は汎用コンピュータが計算してくれることもあり、大きな負担は感じなかったが、課長という立場上、放射線・放射能という専門用語や放射能分析結果の解釈等々、新たな分野での専門的勉強が必要であった。始めの年には最低レベルである「第2種放射線主任技術者」にチャレンジし、なんとか合格した。翌年は差rに難しい「第1種放射線取扱主任者試験」を受けたが見事に不合格であった。追記;その後も暇を見ては勉強していたが、二度目の原子力センター勤務になり、再度チャレンジをし、通算4回目の受験で何とか合格できた。なぜ難しかったのかは「放射線の測定と実際」という科目が実務的で応用的であったことから、他の基礎科目はほぼ合格点でもこの科目だけ半分以下だったことによると思われる。
<1,設立の経緯>
・2003.5月 団体としてはH15年5月に発足、H16.6.2NPO法人としての登録&認定取得
・2004.11.26 第2回地球温暖化防止講演会の開催、講師は環境省地球環境局国際対策室長の水野理氏、もう一人は「太陽光発電の現状と展望」と題して、㈱資源総合システム、代表取締役の一木修氏、会場は仙台駅西口のエルソーラー仙台大研修室
・2008.6.28 定期総会、8月嵯峨宅での夏季合宿、夜は遠刈田温泉での「ノんべんだらーり」に参加、新人歌手の笹原聡美氏の路上ライブに応援、夜は討論、
・2008.11.2定期講演会は中田俊彦教授の講演⇒この講演会は学術的な講演会から、「ワインを片手にエコトーク」と表して、気楽に参加でき質問もしやすい雰囲気の新しい形の講演会を目指した
<2,NPO法人として補助金を獲得、\57,300、計114,620円>
<このころは各個人が夫々に活動をしている⇒加賀谷は再生可能エネルギーのバイオマス発電などに、佐藤信俊氏はエコフィード、嵯峨京時氏はアカモク>
・2009. 岩手県葛巻町の新エネルギーへの取組に刺激を受ける。
<3,登米町との共同事業>
・宮城県登米町の「地域エネルギービジョン策定調査」に参画し、その企画を現実化しようと奮闘した。バイオマス(バイオエタノール、BDF)、市民共同発電、EVの導入など
<個人的には県原子力安全対策室長となり、東北電力女川原発3号機におけるプルサーマル計画の安全審査に取り組んだため、エコワークにおける活動は京都議定書の達成状況の把握をメインとした>
<再就職で選んだのが、㈱オイルプラントナトリという液体廃棄物のリサイクル会社である。この会社は名取市のてんぷら油の一般回収事業と連携して、「BDF製造装置」を独自に設計試作したもの。一日5トンの処理能力は京都市の1トンを超える日本一の製造能力を有するシステム、加えて前処理としての遠心分離装置を使用するなど、生成されたBDFの性状は新しい大型トラックのエンジンにも使用できるほどの「炭素粒子の混入が少ない性状」にまで再生させている。
・<4,010.1.16 市民共同発電所構想>
<4-1、環境講演会の講師依頼&広報ポスター作り>
<4-1、環境講演会の講師依頼&広報ポスター作り>
■26.8.22記述
・エコワークは市民への啓発として年に一度「環境講演会」を開催している。毎年時宜にかなったテーマとそれにふさわしい講師を選ぶのだが、第1回(2003.11.5)環境講演会の講師は小葉松理事長の推薦で決まった。県北にある伊豆沼で長年観察を続けている「呉地正行氏で「温暖化によるとみられる渡り鳥の変化」について報告していただいた。第2回目(2004.11.27)は環境省の国際対策課長である「水野理」である。当に地球温暖化対策の日本の中心的人物に講演を依頼することができたのは、水野氏が10年以上前に宮城県庁に出向していたからです。水野さんは1988年4月から3年間涵養対策課に所属され、公害防止計画の順守状況や環境アセスメントの実務を担当され、その後、本省に戻り大気保全局で窒素酸化物対策を担われていた。上司の不幸もあり精神的にも相当疲労したとは思うが、明日から部の住アイレスの国際会議に出席する直前にわざわざ来てくれて講演してくれた。彼は横浜翠嵐から京都大学の衛星工学科を出て環境省に入賞したキャリアだ。現場を経験したいという事で、自ら希望して担当業務をやるというナイスガイである。私の後任業務を担当していただいたので、引継ぎをした経緯もあり、昼休みは将棋を教えてあげたのが懐かしい。将棋は初めての様だったが、すぐうまくなり難しい局面ではよく考えて一手一手をさすという熟考派であった。環境省でのその後、ハーバード大学に留学し、経済学修士を学んだ。その成果が写真2の書籍として私の環境経済学のテキストになっている。
<4-2,遠刈田温泉での夏季合宿(のんべんだらーり)>
・エコワークの大きな事業の一つに環境講演会とともに、遠刈田温泉における夏季合宿がある。8月に蔵王町遠刈田温泉の飲食店が開催している「のんべん、だらーり」という何件かのお店を回りながら定額で飲み食いできるイベントである。このイベント券を購入して行きたいお店を選びそこの料理を食べながら飲んでこの地域の良さを味わってもらおうという趣旨である。この開催時期に合わせてメンバーの嵯峨さんが自分の別荘を開放してくれる。蔵王苑にある嵯峨さんの別荘は松川が流れ新地裏山にはカモシカも見かける自然に囲まれた素晴らしいところです。自然と人為のせめぎあいの中で自然保護か保全かというような環境思想を議論するのもまたしかりです。2回目の「ノンベン、だらーり」では「えんそう」という洋食屋さんの前で若手女性シンガーが伴奏しながら歌っていました。「ハナミズキ」をリクエストしたら一緒に歌う羽目になってしまった。そんなご縁もあり、翌年の「環境講演会」でのパーフォーマンスを依頼したら快く引き受けてくれたのが思い出される。
註、遠刈田温泉のんびり日帰り散策コース
温泉街の足湯や共同浴場でひと息つき、和食ランチやカフェで休憩しながら、こけし体験や神社参拝も楽しめる、徒歩中心でのんびり巡る日帰りコースです。
<5,東日本大震災に見舞われる/2011.3.11)>
⇒被災地支援活動、石巻市を中心に栃木県との共同事業で被災市民の一時休息事業?
・2012.6.24 太陽光発電設置促進事業案の推進、7.1から再エネの定額買い取り制度が始まる。「エコワーク市民ファンド構想⇒1億円を目指して、1口10万円を1,000口」などで県内へのソーラー発電への理解に努めた。
・2013.6.24 H25年度は設立10周年という事もあり、エコワーク実践塾として一つの転機となる
一般家屋への太陽光の導入を促進する、今までの広報啓発中心から少しは実践していくべきだという考えのもとで、家庭用太陽光の実践例などを講演会にて発表してもらった。
⇒東北電力㈱の及川氏による、東北電力における再生可能エネルギーの導入状況、民間人の今野勇氏による「家庭用パネルの導入と効果」
<6,宮城県広域水道施設跡地におけるメガソーラー発電に応募>
・宮城県白石市にある広域水道施設跡地を利用した「2メガ規模の太陽光発電のコンペに参画、二位に終わる、残念
<この当時は加賀谷、新井田氏が自分のソーラー発電所を設置すべく場所探しを行っていた。結果としては、2015年と2017年に2か所ずつ「マイソーラー発電所」を設置し、そのノウハウを生かすべく農家の空き地を利用した「ソーラーシェアリング」を企図したが、高齢化している農家はほとんど取り組む気配もなかった。他方、山形県安どの先進農家の一部では、「ソーラーシェアリング」を進めており、副収入をもたらすことから少しずつではあるが浸透していったように見える。
<設立10週年を機に今後のエコワークの方向性について、アンケート調査を行い、会員の求めるものを調査した。⇒調査結果は次のとおり(未定)
・2015. 加賀谷が二代目理事長に就任⇒就任のあいさつ内容
<7,宮城環境税に取り組む>
・2016.2.16 FITからFIPへ、富塚氏100名山踏破、山形県村山市の町おこし、電力自由化、宮城県保健環境センター指定管理者への応募を模索、
・2017.2.19 グリーン連合仙台地域交流会の開催等
<8,2017.5.24、地球温暖化防止対策普及啓発事業への応募>
<9,2018.5.12 グリーン連合との連携>
・役員改選、ソーラーシェアリング、
・2019.5.24 台湾での洋上風力発電の視察計画、新型コロナにより断念、9月には「環境と経済を考える」を説明、
<2020.7.25佐藤信俊氏が三代目理事長に就任>
<参考資料1>~地域環境教育カリキュラム策定調査報告書~
ま え が き
1987年に世界の人口は50億人に達し,西暦2000年には61億人,2025年には82億人に達するといわれている。この人口増加が,今後我々に何をもたらすのだろうか,また,現代に生きる人間は,将来の世代に何を為しておくべきなのだろうか。
我々人類は,望ましい環境を求め,科学技術を駆使して今日の豊かな物質文明を築き上げてきた。しかし,大気,水及び土壌汚染などの環境汚染,緑地の破壊や地盤沈下などの環境破壊,有限な資源・エネルギーの枯渇問題,都市への人口集中による生活環境の悪化問題といった,いわゆる環境問題の出現により,豊かさとは何か,地球や資源の有限性,かけがえのない自然に気付くようになった。また,豊かさの中には「もの」の豊かさだけではなく、「こころ」の豊かさも人間の生活に欠かすことのできないものであることに気付いた。
このような中で現在, 21世紀に向けての長期的視点から,国においては「四全総」と「環境保全長期構想」が策定され,本県においても「第三次宮城県長期総合計画」と「宮城県環境管理計画」に基づいて,開発と環境の調和が計られている。
これらの計画の理念である「真の豊かさと望ましい環境」を創造していくのは人間であり,その目標実現には一人ひとりの価値観,倫理観,自然観が大いにかかわってくる。しかるに,日本人には,「自然は人間に克服されるもの」のような環境観(自然観)や経済合理主義的環境観もあり,このような環境観のあるべき姿も問われている。
一方,環境へのニーズは多様化・高度化し,公害の防止や自然保護にとどまらない潤いややすらぎ等の快適性,審美性といった欲求が高まっている。このような観点から,地域住民の生活環境をよりよく保全・創造していくこと,これが快適環境,いわゆるアメニティを追求していこうということである。
このアメニテイを実現するためには,行政の対応とともに県民一人ひとりが,身近なところから環境に配慮していくことが大切である。各人が身の回りからスタートし,地域,地方,国,世界と行動の輪を広げていくことが,アメニテイの実現,ひいては地球環境の保全にとって重要である。それには,ものをみだりに捨てない,ものを大事にするといった基本的な生活・行動ルールの再確認から始まり,自然と人間のかかわり方をとらえ直すことなど,人間の意識の変革と行動が望まれている。
1975年ベオグラードで開催された環境教育に関する世界会議において,人類が当面する環境問題に対して,その根本的解決には教育の革新と充実が必要であるとの合意が得られた。
しかしながら,我が国における環境教育に関する議論は,まだ端緒についたばかりである。すなわち環境問題の重要性を認識して様々な調査,研究及び実践している学校や地域も存在しているが,全体からみるとそれは極めて少数であり,環境教育の目的もまだ明確に規定されていないのが現状である。
本県における環境教育の取り組みも意識的,体系的なものではなかったが, アメニティ意識の高まりとともに,自然観察会などの体験学習を含めた全体的な環境教育の手法や在り方等についても議論を始めたところであった。
このような時に,環境庁から本調査を受託したことは誠に時宣を得たものと考えている。
この報告書は,環境行政における環境教育について「宮城県環境教育検討会」で検討頂いた提言をまとめたものである。今後,この小冊子が各方面の方々に指針として活用され,本県における環境教育の推進に役立ってくれることを願うものである。
昭和63年2月
宮城県保健環境部長 伊田八洲雄